檸檬

 

 

三月二十六日

車窓から海が見えていた。
歌を詠む。

海を背に坂を上り、柿本神社についた。
二礼二拍手一礼。ここ数年でなんとなく慣れてきた動作。
振り返ると、神主さんはお宮参りの親子を送りだし、
社務所まで戻ると、次に現れた参拝者の「自動車清め払い」に執りかかっていた。
一人で切り盛りしているので、長閑な景色の中で神主だけが慌ただしい。
当たり前かもしれないが、普通に働いている。

私なりに神主さんの立場を整理すると、ただ一人で神社の運営も行っているので、
この文中では神主さんを、社の主(あるじ)と呼ぶことにする。

私は長閑である。
待っている間、メモ紙に奉納歌を書く。
とても晴れていた。
海が見えるせいか、海がよく似合う神社だ。

本書の奉納については、来る直前に電話していた。

主が戻り社務所の窓をあけ、私は本をひらき、本文中の説明を始めて直ぐに
館の扉が開かれることとなった。

主は、書家の話を始めた。

なんでも版をわざと揺らさせながら、逆順に書いてもピシッと書ける
天才書家が、この歌額を奉納したそうだ。

存じ上げなかったのだが、書家、伊藤明瑞はお酒が好きで、
晩年は酒屋の看板を書き始めてから落ちぶれていったらしい。
さて、見ると紙がところどころ剥がれて読めなくなっているが、
修復したら明瑞の書ではなくなるので、そのままにしている。という。

神主さんの笑顔が嬉しい。

私は立派な毛筆を見る機会がないので、理解するのに大部時間がかかってしまったが、
これは、本書で全文超訳をした石見の海の長歌だ。
本書の映像では、最後の一節「靡けこの山」を万葉の呪力として炸裂させた。

その言の葉は、もう一度だけ妻の姿を見たくて、
さえぎる山を薙ぎ伏せようとする壮大な愛。

長歌はドラマ性が一首で完結していて、現代の我々を圧倒する。

晴れているので、自分が反射してしまう。

他にも、様々な奉納歌や歌碑の話を伺う。

私は昔の歌人に倣いたくて、
会話に混ぜるようにして、私の奉納歌を声に出して詠んでみた。
時をかけて、、、

素直な歌だ。 と、主。

なにかが伝わったのではないかな。

君に。

 

さて、もうひとつ。

カードを一枚奉納することに。

え? おみくじ?
いつも引かせてるのに。

主は笑いながら、私は選ぶことはない。
と、裏返しにされた山の一番上をめくった。

すでに、あなたによって切られているでしょうから。


一瞬、人麻呂のページがでたかと錯覚した。
素直に美しいカードだ。

主は、本と歌とカードを持って神前へ向かった。

私は胸が一杯になりそうで、本殿を数枚撮影しただけで神社を後にした。