自由とは、なんとでっかいものだ。 自由のこっち端から自由の向こう端へやっとこ辿り着いたら、
おやまあ、元いた自由ってとこが山の先き遥か彼方じゃないか。

 

三月二十六日 パレード大阪本社


文学の歴史を鑑みると、「言論の自由を守り、己の感性を貫く。」
このことは、命と名誉を賭けた人生行為であった。

島流しにあった歌人、戦中に投獄された文学者。
一転して戦後に戦犯だと糾弾された詩人たち。

常に泥をかけられ、刃を向けられながら進む。

いざ出陣したら、味方に背後から撃たれる。退路を断たれる。
これは、数々の戦史に記されていることでもある。

- 死んでしまったら、人のせいにもできやしない。-

私はこのことを、一個の身体表現に置き換えて自問してみる。

私が跳躍した瞬間、無風夢中の意識が地上の何処と繋がっているのか。
着地する地面は柔かな芝生か。それとも薄氷の沼か。茨の絨毯か。
そもそも、踏ん張れないほど地面は泥濘んでいないか。

地上の守人(もりびと)と私はしっかり結ばれているのか。

いや、自費出版の場合、その確認も十分にされずに出版される。
殊に本書は全て自分の手による高純度な作品。元より放り投げただけの矢のようなもの。

おまけに、いつまでも本の最後にやりきれない異物感が残っていた。
流通の慣例として、本の最終ページ(奥付)に発行人として出版社の代表名を刻まなくてはならなかったのだ。

結局、見も知らぬ男の名を、私自身で私の身体(本書)に打ち込んだ。

私は本を保証するため、所在と名をお借りすることにした。
彼らにしてみれば、私こそ純粋な異物であり、宿を借る虫のごとく。

まさに純粋な異物である私は、見通しの悪い水面下で、詮索や妨害、冷やかし行為を受け続けていたに違いない。
心当たりは一年分。吹きっさらしの私の心は安まる時がなかった。

そんな過酷な状況だからこそ、人との繋がりが美しく思えることがあった。

去年の夏頃から私は祈っていたのかもしれない。
それでも、いつまでも危険でぐらぐらな地上は固まらなかった。
私は「檸檬」を期に、初めて本社の社長を訪れることにした。

本書は、経営者の視点では及ばない範疇に存在する集中体なので、
会ったら多少がっかりすることはわかっていた。

午前十時、黒塗りの鮮烈。
色々と気使いを頂き、楽しくお話させて頂いた中「言論の自由を守るため」との言葉が一番残った。

彼の意味するところは、私の知る現実と乖離していた。
一般的に、お客様の自由を守るために言葉を発しない。
気になっていたとしても、見て見ぬ振りをして直接関わらない。
間口を広げ過ぎて冷ややかになったビジネスマナーを言っているような気がしてならなかった。
面すれど、私の意味と交わることがなかった。

瞬間、私は互いの距離(淵)を見ることができた。 現実を認めた。
でも例え彼の自由が軽いビジネストークだとしても、前向きなメッセージであることは確かだ。
一歩づつ歩み寄ることが大事なのかもしれない。


前日、二十五日に訪れた「檸檬」梶井基次郎の墓は、ここから三駅しか離れていなかった。
その日は、思いつくまま堺まで足を伸ばし、仁徳天皇陵をぐるりと廻った。
次の日、社長は堺に住んでいたことを聞く。 昔、義父は堺で働いていた。

知りながら初対面となるスタッフの方々とも挨拶をした後、秀吉が子孫のために築いた大阪城へ登った。
天守の高みから昨日の古墳を重ねて考えた。
巨大すぎる建造物は、きっと子孫のための祈りなのだろう。


 


仁徳天皇陵

大阪城


 着いた時には、日暮れ始めの淡い暖色に空気が染まっていた。
 こんもりとした陵墓に、ぽっかりまあるい雲が浮かんでいた。
 神秘的なノスタルジーを感じる。

 地上からでは大きな陵墓の姿を掴めなかった。
 皇后の歌碑があった。一人の小さな女が歌う愛に感銘を受けた。
 ぐるりと歩きながら想像力がSF的に肥大し始める。

 堺市役所の展望ロビーから良く見えるらしい。
 当時、高い櫓を組み、高貴な人はその上から眺めたのだろうか。

 
 パレード本社から川を越えて歩く。
 観光客で賑わっていた。

 一瞬で滅びたが、今も立派に残されている豊臣の大阪城と、
 焼失のままにされた徳川の江戸城。両者のロマンが心に彩る。

 滅亡する者たちに残される高い塔。

 私は国譲りの代償として約束された古代出雲の空中神殿を連想した。
 日本の中で、歴史は繰り返しているのだ。